まなぼうや通信

 

四日市の城と歴史のロマン「綱の会」

四日市の歴史と文化に興味を持ち、浜田(現 鵜の森一丁目)に築城された「浜田城」の歴史を中心に調査・研究活動をされているグループを紹介します。

会の名称
  浜田城は城主田原一族により忠秀・藤綱・元綱・重綱と四代、105年間続きました。会の名前は、歴代城主の名前にちなんで「綱の会」と名付けました。


ムカデ退治で有名な 俵藤太(藤原秀郷)ゆかりの兜「十六間四方白星兜鉢」

設立について
  四日市の昔は、宿場町、市場町。近代では港湾や石油コンビナートの工業都市としてのイメージが強く感じられます
  しかし、当地にも数々の城があった事実を知る市民は少ないと思います。四日市の城について情報発信の場になればと思い、この会を立ち上げました。

浜田城などの調査・研究
  群雄割拠の時代、各地に有力者が台頭し、国中で盛んに城が築かれました。
  ご多聞に漏れず四日市にも、たくさんの城が築かれています。浜田城をはじめ、赤堀城、羽津城、茂福城、采女城、保々西城、坂部城、萱生城などなど。

例会での活発な質疑応答
勉強会の様子

 浜田城は、室町時代の文明2年(1470年)現在の鵜森神社の地に築かれました。鵜森神社には、田原一族の先祖である、ムカデ退治で有名な俵藤太(藤原秀郷)ゆかりの兜(かぶと)と伝わる十六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうじろほしかぶとばち)が所蔵されています。また、境内には土塁(どるい)も残っています。
  初代城主は、赤堀御三家の景信の子息“忠秀”(田原一族の三男)。以後、藤綱・元網・重綱と四代を数え、通説では、最後の城主であった重綱は天正12年(1584年)5月、秀吉の攻撃により美濃で討ち死にしたとされていますが、奇跡的に郷里に生還し、名字を変えて潜居したという史料も見つかっています。
  このような、埋もれた史料や、当時の家臣であった堀木家や伊達家、行方家 (後に「福生家」と改姓) など、旧家に伝わる書物などを発掘し、調査・研究していくという、歴史ロマンあふれる活動です。

浜田城址の石碑
鵜森神社

これからの計画
1.年に数回会合を開き、浜田城を中心とした四日市の歴史・文化を勉強して検証し、情報交換を行う。
2.必要に応じ会誌を発行する。
3.浜田城をめぐる歴史合戦の絵図を作成し、四日市の文化財とする。将来は、浜田城の復原を図りたい。
4.会員の親睦を図るため、歴史探索ツアーなどを計画する。

問い合わせ先
事務局長  山路 浩一 さん  Tel・FAX:059-350-5250

 

 

 

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